絵画の「夜」

       絵画の「夜」―こすりつけられた画面がざわめくとき

                                谷口 創

この「夜」は「夜展」ではない。夜をモチーフにした作品を集めた展示でも
なければ、夜を多角的に検証しようという機会でもない。この「夜」は絵画と
それが置かれる場所とを通して、夜そのものへと接近しようとする試みである。
その接近の序奏として、ubeful の公式tumblr 上に16 枚の名もない写真群が
用意されていた。そこに揃った写真はどれもが今回の企画タイトルである「夜」
に関連するものでありながら、よくよく眺めればそれらは、撮影された場所も
時間帯も被写体も異なる、さまざまな夜の表情を伝えている。あるものが港や
街並の夜景を伝える一方で、あるものは山際に訪れる日没を写し出し、またあ
るものが電飾―夜闇への抵抗が彩る歓楽の夜を伝える反面、されるがままに闇
に飲み込まれていく植物の真夜中を捉えたものもある。日々、そしてほぼリア
ルタイムで伝えられたこの様々な夜の一コマは、私たちが日常を過ごす生活圏
外にも様々な夜の姿が形作られているのであって、夜という現象が自分たちの
生活リズムを作り出す為の単なる「時刻」では決してないこと、言い換えれば
私たちの見えないところにも同時多発的にそれぞれの夜が確かに訪れているの
だという気付きへと私たちの認識を運んでいく。夜とは決して単一のイメージ
で語られるべきものではなく、時間帯や場所によって様々かつ細やかにその表
情を変化させる多様なものであり、そして同時に生死を問わず、何ものの上に
も平等に、そして否応なく降りかかる、紛れもない自然の摂理であること―そ
のことをこの一連の写真群はその全体で示唆しているように思われる。ではこ
の平等に訪れる夜が絵画の元へとその夜闇を注いだそのとき、絵画の夜は一体
どのような表情を湛えるのだろうか。そのことを感じるためには、体験として
の絵画のはじまりに遡ってみる必要がある。
絵画体験のはじまりとして、子ども時代の絵を眺めてみると、それらは「描
く」という行為からは少し距離のある行為のように思われてくる。子どもの絵
は、ある対象をそのままに描き出すことに主眼はおかれず、また頭の中にある
イメージを忠実に支持体へ固着させようという意志も見られない。外界の対象
でも心象でもなく、つまり眼でも頭でも心でもなく、手という肉体にこそ先導
されてそれらの絵は描かれている。だからこそ、それらは時に元の対象やはじ
めのイメージからはかけ離れて、手の欲望にまかせつつ時に過剰なまでの塗り
つぶしやはみ出しが歓迎され、それがあるエネルギーを生み出していたりもす
る。つまり子どもの絵は「描く」というよりも「掻く」(≒引っ掻く)ことに
近しいのであり、原始的かつ肉体的な衝動がそのまま紙に定着させられたもの
である。考えてみれば、絵を「描く」という言葉はあまりに抽象的かつ観念的
な言葉だ。「描く」ことは「描出する」、つまり何かを「表現する」ことを前提
としているが、その為には、何か先立つイメージや対象がなければならないか
のようである。それが自然物や外界の対象、あるいは何がしかの心象でも、何
か伝えるべき、写し取られるべき、あるいは作り出されるべき何ものかが先立っ
てなければ「描く」という言葉は当てはまりにくい。

しかしながら、誰もが通過したはずの「描く」という初期衝動のはじめには「掻
く」こと、つまり線を「引く」ことや「塗る」こと、もっと言えば顔料を支持
体にこすりつけること、「こする」ことの中にその肉体的な悦楽があったはず
である。「絵をかくのが楽しい」とは、色を紙にこすりつけるという原始的か
つ肉体的な愉しみのことを指していたはずであって、「絵が得意」=「絵が描け
る」ようになるのはそれよりもっと年月を経た後のことである。
ではこの絵画の原体験としての「こする」ことには一体どのような意義が生
まれるのだろうか。何かをかく為には、「かくもの」(顔料)と「かかれるもの」
(支持体)が必要であるが、顔料が支持体にこすりつけられるとき、そこに痕
跡が残る。それは手の動きの軌跡であり、力量やエネルギーさえも伝達される
手の力学のドキュメントとなる。手を動かし、圧力を以て擦るという生命体の
運動がそのまま伝達され、図として残存するという行為、それが「こする」こ
とである。しかしながらそれが、あくまで単なる物質同士の物理的な摩擦では
なく、意図的に「絵をかく」という行為に限定して見るならば、そこには力学
の軌跡以上の―こすりつけようとする意志を持った主体の存在が考えられなけ
ればならない。圧力を以てこすりつけ、痕跡を残そうとするその意志そのもの
が媒体に伝達されるとき、そこには主体の生気や意志、思いそのものが摩擦と
ともに「宿される」ことになる。子どもの絵から、その巧拙を問わず生命力こ
そを感じることが容易だとすれば、それはこの手の摩擦―「こする」ことが無
遠慮に、そして生々しく記録されているからにほかならない。忘れてはならな
いのは、「こする」というこの原始的な肉体運動の軌跡、そしてそれに伴う生
命力の宿しが、どんなに技術が上達しようとも「絵を描く」ということの中に
いつだって原体験として埋め込まれているということである。
しかしながら、通常私たちが絵画をこの生命力の「宿し」、力の痕跡を中心
として眺めることはそう多くない。通常、私たちは絵画を「観ている」のであ
り、「観る」とは主に物質としての絵画そのものではなく、そこに描かれたイメー
ジや色彩、構図といった図像の問題にこそ集中し、鑑賞しているということで
ある。かろうじてそうした視覚の問題から離れ得るとしても、表現されたイメー
ジと作家のパーソナリティーとの照応や、イメージの観念的な意味の探求へと
歩を進めていってしまう。こうした鑑賞法が定石となっている背景には、絵画
の鑑賞が多くの場合、潔癖かつ神々しくライトアップされた白昼の舞台上でな
されていることが存在するように思われる。作品を鑑賞するためだけに特別か
つ万全に用意されたこの舞台上では、絵画は視覚的な魅力を最大限引き出され、
私たちはそれらを眼で味わいながら、視覚とそこに誘発される想像力との往復
運動を堪能する。作品は完成系としての鑑賞対象として疑いなくそこに厳存す
るものであり、それがいつの日か何者かによって絵具を擦りつけられたに過ぎ
ないものであるという原始的な事実をしばし忘れながら―

では、絵画を煌々と照らし出すこの人口光が落とされ、そこに自然の夜闇が
忍び込むとき、絵画は一体どのような表情を見せるのであろうか。作家たちの
手で生気が吹き込まれた作品群が夜という闇に連れて来られたとき、白昼では
作家のパーソナリティーとの接点に矮小化されがちな、その作品たちが作者か
ら遠く離れ、暗闇の中で画面をざわめかせ始めるのかもしれない。言い換えれ
ば、かつて作家の手中にあった作品たちが、かつて彼/彼女によってこすりつ
けられたその画面から生気を分散させ始めるかもしれない。そのとき、また新
たな―あるいは遠く忘れられた可能性としての絵画が立ち上がってくることだ
ろう。それはイメージ/図像としての絵画ではなく、かといって無機的な物質
としての絵画でもなく、いつの日か絵具を媒介に生気を宿された依り代として
の絵画である。
企画の端緒として掲載された16 枚の写真群は夜という自然現象がいかなる
場所においても、また何ものの上にも一定の周期で平等に訪れることを示唆し
ていた。したがって、展覧会という行為の上にも、また作品として残された絵
画の上にも夜闇は平等に注がれる。その時に白昼では鈍感になりがちな「気配」
や生命力の手がかりのようなものがひしひしと迫ってくるならば―それは夜の
展覧会などではなく、紛れもなく展覧会の「夜」こそがそこに立ち現れている
ことになるだろう。したがって、この「夜」は決して夜の表現を試みた作品の
展覧会ではなく、絵画に降り注ぐ夜、すなわち夜そのものを引き出そうとする
試みなのである。夜は何ものの上にも差別なく訪れる。誰の夜があれば、同時
に彼の夜もあり、動植物の夜もあれば、街の夜もあるように、絵画の夜も紛れ
もなく「ここ」にある。「夜」というあまりに遠大で広い自然現象が、今まさ
にここにも注がれているということ、その自然の営みが感じられる場所として、
この「夜」はここに用意された。
草木も眠る丑三つ時に、作者の手を離れ、自生する絵画たちは一体どのよう
に息づくのだろうか。その息づかいを、その存在の気配を、そのざわめく音を、
その絵画の生気を私たちが全身で体感したとき―そのとき、遠く忘れ去られて
いた絵画の悲願は達成されるだろう。

では、素敵な絵画の夜を。

 

 

 

 

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